ゴジラの味噌汁

かげろう(!日記)
'!' は論理演算子 Not です。
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03年  01月 某日

■  シン・レッド・ライン
テレビで「シン・レッド・ライン」を見る。自分の中で煮込んでいないので、こちらで感想を。
公開時は「プライベート・ライアン」の影に隠れていまいち話題にならなかった作品だが、原作を読んでいたので観たいと思いつつそのままになっていた作品である。ちなみにスピルバーグは嫌いなのでライアン二等兵がどうなろうと知った事ではないが、どちらも日本語では解りにくいタイトルだ。「シン・レッド・ライン」と言うのは意訳すれば「正気と狂気の狭間」というくらいの意味だそうである。

原作の感想であるが、アメリカの戦記小説ということで、多少偏見をもって読み始めた。しかも舞台はガダルカナルの対日戦線だから当然敵は日本軍であるから、日本人や日本軍に対する偏見や勘違いは覚悟して読み始めた。ガダルカナル戦といえば、その悲惨さにおいて日本の戦史の中でも特筆すべき戦いだが、この小説を読むとそれはアメリカの兵士(あくまで現場の兵士)にとっても相当悲惨だった事がわかる。
ガ戦に関しては日本側の敗戦としての悲惨さばかりを聞きかじってきたが、勝利者としてのアメリカの兵士から見た恐怖や戦争の虚しさといったことが実感や生活感を伴ってリアルに描かれているのが秀逸であった。むしろアメリカの戦記物といえば勝利者の”たかみ”から描かれた反戦性が鼻に付くものばかりを見せられていたので(まさに「プライベート・ライアン」の世界である。ちなみに映画は観ていないがノベライズを読む限りテレビシリーズ「コンバット」を超える作品には思えない。)これは、これでアメリカの知識層の良心と言えるものだろうし、日米双方の当事者の記録を比較しても、その悲惨さにおいて変わりがないというのは重要である。

で、映画であるが、原作はやたらにモノローグが多い。これをどうやって映画にするのかが一つの興味であった。モノローグは映画にならないが、これをカットしたら作品は成り立たない。そこで結論だが、戦闘シーンや行軍のシーン、他、どこもかしこにもモノローグをかぶせた映画になった。映画としての特性を有る意味、放棄した作りではあるが凄惨な戦闘シーンに物静かなモノローグがかぶると言うのはそれはそれで説得力があるものだ。
そしてもう一つの心配。原作で描写される日本兵は当然よれよれで痩せこけて今にも死にそうなのだが、これを映画で表現できるか?
残念。これはもうしょうがないでしょう。さすがにデブは出て来ないが血色が良すぎる。栄養失調で死にそうな日本人を大量に探すのは無理と言うものだ。二世とかを使わずに本当の日本人で固めると言うのは好感が持てるが、欲を言えばもう少し芝居の出来る日本人を探して欲しかったかな。
でも一番の不満というか疑問は敗走する日本軍にこれだけの反攻をするだけの武器弾薬があったのだろうかっていう本質的な問題。じつは原作ではガダルカナルという地名は一言も出てこないのだが、映画でははっきり”ガダルカナル島”と言っているのだ。ガダルカナル作戦では日本軍が米軍を攻撃したわけで、ガ島と特定しちゃうと日本軍が山中に防衛線を張るってのはちょっと不自然である。
それと、芝居としては登場人物が解りにくい恨みもある。もともと個性的な登場人物はあまり出てこないし、個性的な人物を描くような作品ではないのでしかたがないが、その辺は映画として一歩原作から踏み出しても良かったのではないだろうか。

以上、不満ばかり書いてきたみたいだが、悪い映画ではない。むしろ変に原作と比較しなければよく出来た映画である。良い映画だからこそ逆にちょっとした弱点に目が行くのだ。機会があれば是非観て欲しい一本である。

ついでに「シックス センス」も地上波初登場だそうで。
ブルース ウィリスの映画は”スカ”が多い。「アメリカン ビューティー」なんかは途中までは傑作の予感がしたんだけどね。やっぱりダメだった。
だけどこれは”当り”。もう一度観たいと思わせただけでもまあまあだけど、2度目に観てよく出来てると確認できたってのは”大当たり”じゃないかな。...ま、3度観たいとも思わないけど。




って、あれれれ?「アメリカン ビューティー」には出てませんよね、ブルース ウィリス。
何を勘違いしてたんだろ。(6月某日)

03/01/22
感想文とか

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