ゴジラの味噌汁

かげろう(!日記)
'!' は論理演算子 Not です。
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05年  03月 某日

■  大部屋
楠勝平のぺーじに「大部屋」他4点の解説を追加。
でもって、こちらにはもう少し砕けた個人的視点や感想など。

多くの登場人物を点描的に描く作品は私の好むところである。長編映画で云えば「グランドホテル形式」ってやつだが、これを短編にまとめるのは難しい。
適切なエピソードを選んで、かつテーマが通奏低音のように一貫していなければならない。
この作品は見事にそれを成し遂げている。
少ないページの中で、それぞれの人物像が的確に描かれる。
例えば初めはおずおずと不安そうに入院してきた塚上が、慣れてくると隣の部屋の若い女性患者の気を引こうとしたり、喧嘩になると尻をまくって啖呵を切ったり、遂には「うらみでもあるのかよー 先生にいうからな」などと台詞を吐くに至って楠の人物造形に脱帽してしまう。長編の中で人物が勝手に動き出し、性格が固まっていくというのはよくある事だが、短編では初めからすべて形作ってからでないと構成がまとまらない。その辺が見事なのである。

更に楠自身の体験を基にしたであろう病院生活の機微は見事である。
昔の病院ってこうだったよな、という描写が随所に現れて、資料性も高い。
冒頭で床屋が出張に来て病室で散髪するとか、八百屋が御用聞きに来たり。
布団は患者の持込みとか、賄いの女性が病室や廊下で寝ていたり。
病室内でギターで歌うシーンがあるが、それでも怒られない。今はテレビすらイヤフォンで聞かなくてはならない。
とにかく昔はおおらかだったのだ。

さて、楠自身の体験は体験として、これは楠勝平がこだわり続けたフィクションであることは間違いない。そしてそのフィクションの部分において作者の気持ちがより濃く出てきているんである。
同じ現代物、同じ病棟が舞台ということでどうしても「参加」と比較してしまう。
「参加」の場合、物語の視点は親の側を描くことにあるが、「大部屋」は患者の気持ちを描くのを中心にしている。
また、「参加」では患者である少年の死は、病気によるものではなく偶然の事故による物であるが「大部屋」の少年は順調に回復する。しかし一緒に手術を受けた平尾は、手術後息を引き取り、隣のベッドの小井出も病気が悪化し、死を暗示して物語は終わる。
この差は大きい。
「参加」を執筆していた時点では、楠にとって死は病気であるか否かによらずやってくるものだったが、それから3年後、更に自身の死までは余すところ3年。「大部屋」の時点では、死は隣のベッドで寝ている。
明らかに病気による死を意識して描かれているのだ。

同時期に描かれた「達磨さん、達磨さん...」が過去への後悔と将来への不安を直接的にぶつけているように、この頃には自身の死を相当に意識していたと思われる。
その不安を直接的に作品にぶつけたのが「あらさのさぁ」や長編「ぼろぼろぼろ」であるが、同時に不安を作品の中でより昇華させる努力もしている。そしてその中から傑作が生まれている。「ゴセの流れ」や「彩雪に舞う」などである。

私としてはどちらの傾向の作品も同様に好きなのだけれど。

05/03/25
感想文とか

■ コメント


毛利恵  11/02/26 11:25

この大部屋という作品は僕が中学校1年の時家に下宿していた大学生のお兄さんが持っているガロの中で感動したもので、以後ガロを観るようになったきっかけであります。現在胃癌で市民病院に入院していてしみじみ大部屋を思い出します。僕は大部屋という作品、楠というマンガ家を知った事を誉れに思います。


秋津  11/05/18 02:10

常識はずれの超遅レスで申し訳ありません。

こんなに遅くては毛利さんが再びおいでになることは無いかもしれませんが、とにかくこんな辺境の地に足跡を残して頂きありがとうございます。
入院中に書き込まれたとの由、もうお元気になられたでしょうか。

幸い私は命に拘わるような怪我や病気はしたことがありませんが、1か月程度の入院は何度かあります。
この作品が病院という場所の本質をとてもよく表現していると思います。また、生きることの危うさは齢を重ねるにつれ実感できます。


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