ゴジラの味噌汁

かげろう(!日記)
'!' は論理演算子 Not です。
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05年  12月 某日

■  科学技術部記者のなれの果て
えーっと、ココの所ずっと暇があると「はやぶさ」関係をヲチしてるわけだけど、今回はちょっと別の角度からの話。

日経の清水正巳という編集委員のコラム。
研究の失敗に寛容な風土はできるか

掲載直後から2ちゃんねるの関連板あたりで批判が相次いで、遂に今この問題ではネット上で一番影響力のある松浦氏も噛み付いた

件のコラムに関しては何の勉強もせずに思い込みだけで書いた記事で、読んだ直後は本当に頭に来たが、もう納まった。私の言いたいことは多くの方がいろんな処で突っ込んでいるから。 あ、これだけは書いておこう。

外国のES細胞捏造なんかと同列に語るな!

これが日経の編集委員で「日経サイエンス」の元編集長ってんだから情けないやら悔しいやら。


随分と昔、これと同じ思いをしたことがある。
発行部数、日本一の某大新聞の署名入り記事で「日本は基礎研究より応用研究に力を入れるべきだ」という論旨の記事を読んだとき。
それまで「日本は研究の成果の美味しい所だけを持って行ってしまう」と海外から批判され、外国が研究の成果を渡してくれなくなってギブアンドテイクじゃなきゃだめだと、やっと基礎研究の重要性が一般にも認知され始めた頃だ。にもかかわらずこの某大新聞は貴重な紙面を割いて「基礎研究はいらない」と言い張る記事を掲載したことに暗澹たる気持ちにさせられた。
小さなコラムとはいえ全国の人が読む新聞だから影響力は否定できない。なるほど、と納得する人も少なくはないだろう。
対して反論する場所はどこにもない。せいぜいが頑張って投書する位だが、それで記事が取り消されることはない。

ところが今回の件に関しては松浦氏も書いておられるように

> ネット時代を迎えて、「事物を伝える」ことはメディアの特権ではなくなった。逆にメディア側が「広く伝えている」が故にウォッチングの対象となり、時には批判されるようになった。

という事だろう。
民主主義が(うまく機能すれば)政治家や役人が「お上」から「市民の下僕」になる様に、ネットによって情報も民主化されつつあり、メディアの人間も特権階級ではいられなくなっているってことにこの清水某は思い至らないから安易な思い込みを書いたわけだ。
ブログは簡単に炎上するが新聞社のサイトは耐火構造になってるから(^^)燃え落ちることはないだろう。
しかし、このコラムもいつかは削除される日が来るが、ネット上で大量に書かれた批判記事の幾つかは残り続けるだろう。今現在でも「清水正巳」と検索すれば本人の記事より松浦氏の記事が先に表示される。
ネットを見る人は、まず批判記事を目にしてから清水某の記事を読むわけだ。

蛇足だけれど、民主主義ってのはすごく危ういバランスの上に成り立ってる。
「十二人の怒れる男」のラストシーン。陪審で少年の冤罪を晴らしたヘンリー・フォンダか誇らしげに言う。「だから民主主義は素晴らしいんだ。」
でもね、もしその場にあんたが居なかったら民主主義で少年は死刑になってたんだよ。

陪審員の中にいつもヘンリー・フォンダがいるとは限らない。
ネットだって誘導を間違うととんでもない事になる。


ってことで、ウチも松浦ブログにトラックバック。え?縁起モノですから。

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