Category: 感想文とか
さて、免許更新の講習っていうと必ず見せられるのがチープな教育映画。神奈川しか知らないけど他県も似たようなものじゃないかと想像する。
どういうルートで制作しているのか、よく此処までチンケな画を作ると関心するような映像ばかり。
思うに天下り警官とその関係企業が上前を撥ねて残ったほんの少しの予算で零細製作会社に丸投げして、しかも注文だけは厳しくて、現場では頭を抱えながら「えーい、もう納品すりゃいいや」なんて状況で出来上がるのがあの映画なんだろうな。
そんな中で、以前ケーシー高峰サンが出演していた作品は印象に残っている。
「そりゃないぜ、セニョール」なんて季節外れの空っ風みたいな寒いギャグを連発すると失笑が漏れるほどにインパクトがあった。ただし(当然ながら)内容は覚えていない。
最近はドラマ仕立ての映画も多いようである。永島 敏行主演で「えっ!?」て思った作品もあった。ま、内容は印象にない。(あれ、今書いてて気が付いたけどケーシーサンと永島サンて、「遠雷」で父子を演ってたんだな。日活の関係会社が作ってたのかな?)
で、今回の映画。
いきなり岩に砕ける波の映像。ばーん! 三角マークに東映の文字。
え? 天下の大東映がこんな映画を作るの? 東映教育映像。なるほど。
タイトルは「飲酒運転の報い 破滅への道」(べたべた)
夜。祖母の目の前でひき逃げにあった子供が救急車に乗せられていく。泣き崩れる母親と祖母。
セオリーどおりのイントロだ。見守る野次馬の中に犯人と思しき不振なイケ面男。あれ? これは原田助さん? おお、東映だ。
場面は変わって何処ぞのオフィス。「やあ、久し振り」などと言いながら入ってくるのは、
げげ、さ、里見黄門様ではないか!
うーん、こんな映画にこんな大物を引っ張り出しますか。気合が入ってるなぁ。
見終わってバックタイトルで分ったんだけど演出は金鐘守監督。なるほど納得。東映のテレビ時代劇を専門に、そして大量に撮っている監督さん。この方のオファーなら里見浩太郎さんだって快く出演してくれるだろう。(いや、ただの想像です。もしかしたら逆に里見さんの依頼で金監督かも知れないし単にプロデューサーの選択かもしれない)
シチュエイションはこの手のドラマとしてはありきたりのもの。飲み会の途中で客の要求を断れず車で仕事に向かう途中、人身事故を起こして逃走した原田助さんは悩んだ末に自首。懲役5年で服役。
その間、民事訴訟などの苦労で妻は自殺。子供とは連絡が取れなくなる。
まあ、そんな話を里見黄門様が回想で説明する内容。
でもそこはプロの仕事。作りはしっかりしてる。
演出は勿論、脇の役者さんたちも顔は知らないけど素人の演技じゃない。この手のドラマはいくら中心に有名な役者を持ってきても周りが下手だとご予算少々が見え見えでどっちらけになるのだけれど、これは東映京都の層の厚さを感じさせる芝居。それに照明や音声も安心して見ていられる。
素人が素人の楽しみ方をしているのは傍で見ていても清々しくて楽しい。でも素人がプロの仕事をしようとすると危なっかしくて見てられないんだよね。
この手の映画は今までそんな危うい映画ばかりだったから、今回は少し感激した。
ついでに由美かおるの入浴シーンがあったら傑作になったんだけどな。(注: 由美かおるさんは出ていない)
内容を変にひねらないのが東映京都の良さなんだけど、次回、3年後には少しひねって、うーんと唸らせてくれるような作品も見たいな。東宝か松竹で。
アメリカのドン・シャープ・プロが持ち込んだ企画に東宝が乗る形で制作されたのだけれど、撮影中に会社が倒産。結局東宝が全ての制作費を支払って完成させたのだけれど、どさくさで著作権が宙に浮いてしまいソフト化もテレビ放映も出来なかったといういわく付きの作品。
東宝も大金をつぎ込んで作った割にはソフト化にあまり熱心ではなかったのは作品自体の力の無さもあるのだと思う。
聞くところによれば全ての権利は東宝が有するという覚書は交わしてあったそうな。
だから本来なら大威張りでビデオでもLDでも作れたはずなのだが、どうもその書類を紛失したらしいのだ。相手は起訴社会のアメリカである。関係者が権利を主張した場合証拠が無ければ負ける可能性が高い。たいして売れる見込みの無いビデオを作って大金を請求されたのでは割りに合わないってことなんだろうか。
今回DVDが発売されたと言うことは著作権の問題は解決したのだろうから、これからは名画座以外でも見る機会は増えるだろう。
でもってお話の方は(当時の)現代版「海底二万マイル」といった趣。
冒頭の海底火山の爆発による遭難、α号による救助、黒鮫号との戦い、と此処まではさすが円谷特撮の面目躍如なのだが、その後がいけない。
海底の理想郷「緯度ゼロ」の描写。ロングショットやマット合成を多用して努力をしているのは分かるんだけど生活感がゴソっと抜け落ちてるから世界に広がりが感じられない。
SF映画に異世界は頻繁に登場するが大概は失敗している。まあ、この辺は良く出来ていると評される「スターウォーズ」なんかでも似たようなものだから努力の跡が見えるだけでも良しとしよう。しかし、これが岡田博士救出にブラッドロック島に向かうと目も当てられなくなる。
ああ、しょぼい。あの島には二人しか住んでないのかい。手下は蝙蝠男が2匹だけって、飯を作ったり、掃除や洗濯は誰がやるんじゃあ。夜は棺桶で寝るのかい。
決定的なのは児雷也の大がまレベルの怪獣(?)たち。しょぼぼーん。バラエティー番組の被り物じゃないんだからさ。なんてったって哺乳類はいかんでしょ哺乳類は。
いっそ今風にCGで作り直したほうがいいんじゃないの?(いや、それだけは止めてくれ)
役者も比較的好きなのは岡田真澄くらいで実は宝田明は特に好きな役者ではないのですよ。「第三の男」は大好きな映画だけどジョセフ・コットンに思い入れは無い。平田昭彦さんが出てくると「おっ」と思うけど、ほんのチョイ役だし。
だいたい主要な登場人物がおっさん、おばさんばかりじゃ萎えるでしょ。
っと、まあ、一般的には突っ込みを入れずに観られるシーンを探すのが難しいくらいなので、とても他人様にお勧めできる映画じゃないのだけれど、私的には「ひたすらに黒鮫号が見たい」という一点に尽きる。
α号も充分にカッコイイし大活躍するんだけれど何と言っても黒鮫号ですよ。
やー、不気味だなぁ、カッコイなぁ、そして間抜けだなぁ。
一生懸命攻撃するんだけど常に自分で墓穴を掘る。これがすてき。(見方が偏ってるか?)
悪役なんで登場シーンは少ないのは承知してたけど思っていた以上に少ない。
あれー、こんな物しか出て来なかったかな。記憶ではもう少しは出てたような気がするんだけど、って30年近く前の記憶だからなぁ。その後の写真とかの情報で勝手にシーンを作っちゃってたんだな。脳内熟成。
でも収穫はある。シャッターが開いて主砲が出てくるシーン。うおー、かっちょえー、そうだったか、こんな風に出てくるのか、すっかり忘れてた。
それに同じカットに艦橋横の開口部から砲がせり出してくるところもしっかり映ってる。ここ、ペーパークラフトを作ってるとき資料を調べても最後までよく分らなかったんだよなぁ。想像と大きく変わっていた訳じゃないけど同じでもなかったかな。
もうひとつ、まったく印象に無かったのが後ろのノズル周りと翼の付け根の砲身が赤く塗ってあること。
えー? そ、そうかぁ?
これは赤く塗ると塗らないでは偉い違いになるぞ。模型的には。
映画の中では青いライトで撮影してるから赤は沈んで殆ど目立たない。(だから印象に残ってなかったんだけど)ここを赤く塗った模型の写真を見たのでそりゃ違うだろとか思いつつ注意して確認したのだった。
うーん、これだけ違うと修正するべきか悩む。でも直すにしても余程注意しないとイメージがまるで変わっちゃうよなぁ。模型は映像じゃないから。
おまけ: 波川女史 10体目。更に調整中。
で、映画の方はそのキャラクターをかなり大胆にアレンジして、原作の味を残しつつ「映画」として良くまとめてある。六ちゃんを女の子にしちゃうなんてのはライトオーバーのクリーンヒットだ。細部にまで行き届いた映像作り。きめ細かな演出。ゆったりと時間が流れる脚本。ぴったり役にはまった出演者。
これらの映画としての要素がパーフェクトであると認めた上で、この映画の最大の売りでありキーワードの「昭和レトロ」と言うことになる。
ネット上の感想を読むと、当時を知る世代だけではなく、その子供の世代までも、「自分は知らないけど懐かしい」という感想が多い。
古いものを見て「古い」と思うか「懐かしい」と思うかは個人の感性の問題である。きっとこれは懐かしいと感じられる人だけが楽しめる映画だと思う。
そして、私は何故か「新しい」と思っちゃったんである。
そろそろ上映も終盤だと思うので書いちゃうけど、以下、ネタばれ、突っ込みなので、これから観ようとか、この映画をこよなく愛する人は読まないでください。
と言うわけで伏字の部分はドラッグ、反転で。
冒頭、子供たちが飛ばすゴム動力飛行機が高く舞い上がって当時の町並みを俯瞰するシーン。これは観客を映画の世界に引き込む重要なシーンである。セット撮影と見事なCGを上手く繋げて、かつてなら絶対に出来なかった自然な昭和の映像を再現してくれる。
でね、かつてはゴム動力ヒコーキ大好き少年だった私は飛ばす前に思ってしまうのですよ。
蛇足だけど付け加える。
そして子供たちがはしゃぎながら飛ばすところ。
「小学生があんなに綺麗に作れやしないよ。」
茶川先生の駄菓子屋の店頭に在ったから売ってた物を買ったんだろって突っ込みがあるかも知れない。
断言する。それは在り得ない。
確かにゴム動力飛行機を売っていた記憶はある(もう少しだけ後の時代の記憶だけれど)。でも、それは翼長30センチほどのオモチャの飛行機だ。
あれは「B級競技用」という本格的なライトプレーンだ。大多数の小学生が挑戦して挫折したはずである。今みたいにガンプラの完成品ですらお金を出せば買える時代じゃない。
その昔は自分で竹ひごをローソクであぶって曲げていたのが、始めから曲げた竹ひごが入ったキットを売っているだけで「すごい!」時代だったのだ。
今で例えるなら、そうだなぁ、町の中古自動車屋でF1...とまでは言わないけれどFJ1600のフォーミュラーカーを売ってるかい? って感覚である。
店頭の細長い袋に入ったキットすら昭和33年に売っていたか怪しいものだ。
「おい、そんな道端で飛ばしたら失くしちゃうだろ。」
当時、町並みは低かった。どこかの家の屋根に落ちたら二度と見付からないので、大事な飛行機を、ましてよく飛ぶ飛行機ほどそんな所では絶対飛ばさない。
まず「つかみ」で躓いてしまった。そんな重箱の隅を突付くなよと言われても生活実感だから仕方がない。でもここまではありがちなシーンだから許した。
決定的に「???」と思ってしまったのは重要なアイテム、「ミゼット三輪車」。これは原作でも重要なイメージキャラクターとでも言うべき象徴的なアイテムだから外すわけにはいかないのは理解できる。だから少し位のことは許す。
それにしたって昭和33年にあんなガタガタのミゼットは無いだろ!
確かにミゼットは汚れたポンコツのイメージが強い。しかし、よく考えればそれは後の時代に植えつけられたイメージなのだ。そういえばあの「新型ミゼット」、幼い頃はカッコいいと感じていたのを思い出した。
更に突っ込みは続く。この映画、時代が特定されているように、ある程度土地勘があれば場所もかなり特定できる。東京タワーの左に山が見えるから東京タワーの南側。
それはいい。でも三田から高円寺まで、都電を乗り継いで子供だけで行けるか?
>あのころ、あの辺りで育った子供にとって渋谷駅を越えるのは、ほとんど外国に行くほど大変たったと思います。
ただし、ショウちゃんさんはこれを大冒険としてリアリティーがあって良いと述べられているが、私は、逆に無理だろー、とか考えてしまったのだった。少なくとも乗り換え路線が分からないだろう。
もう一つ、私は当時の都電なんて殆ど知らないからあまり自信が無いのだけれど、私の覚えている横浜市電の最も安かった運賃は大人10円、子供5円である。
当時の都電の運賃をネットで調べたけれど、明確な答えが見付からなかったが昭和31年頃、13円?という情報があった。とすれば子供は7円。
どうひいき目に見ても10年以上は使ったポンコツだ。昭和40年代には在りがちだったけど、どんなに乱暴に扱っても発売されたばかりで、あそこまで錆びる機械はないぞ。
汚れすぎ(ってか、汚しすぎ。当然意図してそうしたのだろうから。)。
ちなみに、ミゼットがいつ発売されたのか調べてみた。そうしたら丸ハンドルで二人乗りのタイプが発売されたのは昭和34年であった。当時はバーハンドルの一人乗りしか無かったのだ。
原作では正確な年代に関してはぼかしてある。大体30年代の前半から中頃のイメージだから問題は無い。(それにしてもあんなには汚れてないけど)
しかしこの映画では建設中の東京タワーやフラフープで明確に昭和33年と規定しているのだ。だから首をかしげてしまう。
私はそれほど土地勘も無いので田町か芝浦あたりかと思ったが、「ショウちゃんのエーガな日常」というブログで地元の方が三田と推測されている。なるほど。まあ、田町駅の前はすぐ三田だから私の推測も大きく外れたわけではない。
ショウちゃんさんも指摘されるように
10秒で済む。車掌に
「高円寺に行くにはどこで乗り換えたらいいんですか。」
「え!?、君たち高円寺まで行くの?」
なんて聞くシーンがあれば納得したかもしれない。
子供たちが手にしていたのは15円。それなら往復できるだろ、と疑問をもってしまったのだ。
一応書いておくと、当時は都内なら何処まで行っても、何度乗り換えても料金は同じ。
一度降りて別の路線に乗り換えるとき、目的地は自己申告という今では信じられない、おおらかなシステムだった。
っと、まあ、いろいろ突っ込んだのだけれど、
テレビや冷蔵庫が来たエピソードなと、少々カタログ的な感が無いでもないが、全体としては細部にこだわって非常によく昭和を再現している。
よく再現しているがゆえに、以上のような実感と微妙にずれる部分がリアルな風景と相まって妙な現実感を生む。
この妙な現実感が、昭和に作られた昭和の映画ではないのにリアルな昭和の風景という、更に理解できない「新しさ」として感じられるのだった。
新しい映画だから(つまり新作だから)「新しい」のは当然なんだけど、この「新しさ」が、少しだけ居心地が悪いと感じたのだった。
それにしても後半、ちょっと泣かせ過ぎで逆効果じゃないかい?
泣かせるのは中盤にちょっと、終盤にしんみりってのが一番余韻が残るような気がするんだけど。
そして4月3日、漫画家の岡田史子氏も逝去。
掲示板でSYUさんに教えて頂くまでまったく知らなかった。
ファンページの掲示板によると心臓発作による急死だったようだ。
リアルタイムでトチ狂ったひとりとしては非常にショックである。
COMでデビューしたとたん新人が新人に影響を与えるという特異な現象を巻き起こしたが、数年の活動の後、ぱったりと執筆を止めていた。萩尾望都氏等の働きかけで一度は再開したものの、やはり商業誌とは相容れずに再び筆を絶っていた。
近年、新刊が出たりサイン会を開くなど、再開の兆しに希望を持っていたので返す返すも残念である。
まだ55歳であったとか。若すぎる死に言葉も無い。
共にご冥福をお祈りする。
パッケージには「アナログウルトラシリーズ」とある。
白黒フィルムで撮影された作品をブラッシュアップしてビデオと見まごう鮮明な画質を実現し、ステレオ音声にノイズを加えた「ドルビーアナログ5.1chモノラル」という最新の擬似モノラル技術を採用している。
また、特典映像として香港版劇場用予告編と貴重なメイキング映像が収録されている。
さて、その本編。
各地で発生する時間の異常なリワインド現象。遂には太古の生物であるはずのラドンプテラノドンまで出現。
一の谷博士の助言を受け、この謎を解明すべく鍵を握る人物、波川博士の元へ向かう淳、由利子、一平の三人。
...ウソです。
本当は「荻窪東宝」さんで以前から製作記が掲載されて期待が高まっていた「ウルトラQ」第29話を自主制作しちゃおうという大胆かつ無謀な(^-^)企画が遂に完成。
お疲れ様でしたー。DVDも送って頂き、ありがとうございます。
今まで何本も自主映画を制作をされてきた方だが、なんと、今回は21分の本編がネット上でも見られる! いやー、良い時代になったもんだ。
で、以下、ネタバレも含まれるので未見の方は先に上記サイトでご覧になることをお勧めする。
ノスタルジックな写真構成の導入部に続いて突然「タケダ、タケダ、タケダー」の歌と共に武田薬品の看板を空撮したスポンサーのクレジット。どひゃー、こんな映像、何処で手に入れたんでしょう。途中で挿入されるハイシーAのコマーシャルと共に、この作品が完全なパロディーであることを主張する。
「ウルトラQ」は面白い。だから同じものを作ってみようって発想はあると思う。実際新作が放送されたのは記憶に新しい。でもそれは昔のウルトラQとは別物として見なければ見るに耐えない。でもパロディーなら違いも許せちゃうって云う所が重要である。そうでなければ単なるパクリになってしまう。冒頭でガツンとやっておけば出演者(皆さんいい雰囲気でした。)の違いもビデオによる画質の違いも気にならなくなる。
そしてパロディーであることを承知で見るならば、ミニチュアワークや合成などの特撮、懐かしいソニーのトランジスターテレビなどの小道具、和菓子を作る機械を改造したという時代を感じさせる奇妙なメカ(時間分解装置。なんと(有)青島文化社の銘版が)などが、白黒の画面とあいまって実に懐かしい雰囲気を醸し出して、しっかりとウルトラQしてるんである。
SF的要素も最新の理論とかを変に説明しすぎず、かと言って「何じゃこれ」って云う説明不足も無く、昔の認識をなんとなく納得させちゃう程好いレベル。時間のリワインドってアイデアが自然に映像化されて、あんな懐かしい雰囲気の機械なら実現できそうだなって思わせる。
最後にはお約束のちょっとしたオチも用意されて(パートカラー)これも納得。
そして支配人さんの作品は、サイトをご覧頂くと「無責任パッケージ大作戦」なんてコンテンツが有るように、パッケージや特典映像も含めてトータルの作品なのだ。
パッケージはすみから隅まで支配人さんの独壇場。「JASRAC」の承認シールかと思うと「JALPACK」だったり、「見終わったディスクは必ず最初まで巻き戻し、ケースに入れて保存してください」って、どうやってディスクを巻き戻すんじゃ! とか。ご丁寧に解説も入っていて架空座談会やヲイヲイっていう秘蔵写真も収録。
メイキングビデオにはNGシーンや本編では使用されなかったシーンなども収録されて、出演者、スタッフの和気藹々とした雰囲気が伝わってくる。特にミニチュア撮影中の画面の外の会話などすごく楽しい。
あ、カットされたシーン、これ捨てちゃうのもったいないですねぇ。一平ちゃんが道に迷ったところなんか有った方が良い気もしますが。
願わくばこちらの映像もネットで公開して頂きたい所だけれど、転送量の関係もあるし難しいのだろうか。
多くの登場人物を点描的に描く作品は私の好むところである。長編映画で云えば「グランドホテル形式」ってやつだが、これを短編にまとめるのは難しい。
適切なエピソードを選んで、かつテーマが通奏低音のように一貫していなければならない。
この作品は見事にそれを成し遂げている。
少ないページの中で、それぞれの人物像が的確に描かれる。
例えば初めはおずおずと不安そうに入院してきた塚上が、慣れてくると隣の部屋の若い女性患者の気を引こうとしたり、喧嘩になると尻をまくって啖呵を切ったり、遂には「うらみでもあるのかよー 先生にいうからな」などと台詞を吐くに至って楠の人物造形に脱帽してしまう。長編の中で人物が勝手に動き出し、性格が固まっていくというのはよくある事だが、短編では初めからすべて形作ってからでないと構成がまとまらない。その辺が見事なのである。
更に楠自身の体験を基にしたであろう病院生活の機微は見事である。
昔の病院ってこうだったよな、という描写が随所に現れて、資料性も高い。
冒頭で床屋が出張に来て病室で散髪するとか、八百屋が御用聞きに来たり。
布団は患者の持込みとか、賄いの女性が病室や廊下で寝ていたり。
病室内でギターで歌うシーンがあるが、それでも怒られない。今はテレビすらイヤフォンで聞かなくてはならない。
とにかく昔はおおらかだったのだ。
さて、楠自身の体験は体験として、これは楠勝平がこだわり続けたフィクションであることは間違いない。そしてそのフィクションの部分において作者の気持ちがより濃く出てきているんである。
同じ現代物、同じ病棟が舞台ということでどうしても「参加」と比較してしまう。
「参加」の場合、物語の視点は親の側を描くことにあるが、「大部屋」は患者の気持ちを描くのを中心にしている。
また、「参加」では患者である少年の死は、病気によるものではなく偶然の事故による物であるが「大部屋」の少年は順調に回復する。しかし一緒に手術を受けた平尾は、手術後息を引き取り、隣のベッドの小井出も病気が悪化し、死を暗示して物語は終わる。
この差は大きい。
「参加」を執筆していた時点では、楠にとって死は病気であるか否かによらずやってくるものだったが、それから3年後、更に自身の死までは余すところ3年。「大部屋」の時点では、死は隣のベッドで寝ている。
明らかに病気による死を意識して描かれているのだ。
同時期に描かれた「達磨さん、達磨さん...」が過去への後悔と将来への不安を直接的にぶつけているように、この頃には自身の死を相当に意識していたと思われる。
その不安を直接的に作品にぶつけたのが「あらさのさぁ」や長編「ぼろぼろぼろ」であるが、同時に不安を作品の中でより昇華させる努力もしている。そしてその中から傑作が生まれている。「ゴセの流れ」や「彩雪に舞う」などである。
私としてはどちらの傾向の作品も同様に好きなのだけれど。
という訳で、こんな展開になればもっと面白い映画になったのになぁ、という幻のシナリオ?
ご堪能ください。
「轟天号アタック」 ===================================================
「君の行動は、地球防衛軍の規律に、多々違反していることが報告
司令官の去った後で、神宮寺は吐き捨てるようにつぶやいた。へ ●
やがて轟天号の修理は完了し、艦長に就任した土方大佐の指揮に
猛烈な閃光とともに、エネルギーの位相を反転された負の熱エネ
「レーダー回復、画像を拡大しますっ!」
新轟天号は、そのスムーズな船体に全てを引き込み、ハイパーチ
そのとき、レーター手が声を上げた
通信の背後で、おおーという声が上がり、いかにも頑固そうな面
「艦首ドリル、高速回て〜〜〜んっ!」
時代遅れの一隻の軍艦が、猛烈なアタックを開始した。白熱する
=================================================== |
「スカイキャプテン」が今週で打ち切りみたいなのでまずこれを観る。上映時間を調べたら朝の11時の回の次は夕方の7時半。昼間は別のプログラムだ。冷遇されてるな。余程入りが悪いのか。夕方は酒宴なわけで、仕方が無いので11時から。でもその後時間が余っちゃうからついでに「ゴジラ・ファイナル・ウォーズ」も。映画の梯子は久しぶり。って言ってもシネコンだから二本立てを見たようなものだけど。
で、飲み会の報告をしてもしょうがないので映画の感想を少々。多少のネタバレもあるので未見の方はご注意ください。
まずは「スカイ キャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」
それなりに期待はしてたんだけど期待以上の出来だった。
映画にCGを持ち込むのはどちらかと言えば否定的、って言うか食傷気味なのだけど、これはCGの中に人間をはめ込んだようなもの。
アニメ版「メトロポリス」を彷彿とさせるオープニングのニューヨークの描写。ヒンデンブルグ飛行船やカーチスP40といった実在のメカと、リベットだらけのブリキ細工の様なロボット。飛行空母や流線型の巨大ロケット等々、レトロなデザインのメカと、紗を掛けたようなソフトフォーカスの画質があいまって全編に独特な雰囲気が漂うので、アニメと実写を組み合わせた感覚に近くて、違和感がありすぎるから気にならないという逆説的な結果になった。ただしこれが成功したからって同じようなものばかり作られると困るんだけど。
お話の方は地球殲滅を企むマッドサイエンティストを探す女性記者と、元恋人のスーパーヒーロー、スカイキャプテン。そこに二人が別れる原因になった英軍の女性将校がちょっと絡んで...ってな、ありがちな話なのでどうでもい。
そんなのあるわきゃないぜ、って言うアホらしさを楽しめるか否かで評価が決まる。もう私など最後までニヤニヤしっぱなし。
主人公の登場するシーンでは「スカイキャプテン!スカイキャプテン!」と呼びかける無線の電波が同心円になって広がる。P40(改)が潜水艇になるシーンなど思わず手をたたいて大笑いしてしまった。それでもプロペラのブレードは抵抗を減らすためスピンナーに格納される芸の細かさ。こういうセンスが日本のSFにも欲しいなぁ。(今作っている黒鮫号など奇抜ですごくカッコいいデザインなのに細部を見るとインテイクの前面がたいらにカットしてあるとか、尾翼がただの板切れ(断面がたいら)だったりと、容認できない流体力学的な手抜きがいっぱいある。勝手に直したけど。)
ありがちな話とはいえシナリオはよく練ってある。主人公が元フライング・タイガース(日中戦争初期、空軍力を持たない蒋介石軍を支援した(建前上)民間のアメリカの義勇軍)のパイロットだったという設定などヒコーキ好きの心をくすぐるし、アンジェリーナ・ジョリーが登場するまでの伏線の張り方、ヒロインの性格描写など、まったくそつが無い。特にラストシーンは何度も伏線を張っておいて最後の一言でストンと落としちゃう手際のよさ。これは「面白い」を通り越して脱帽!
ちょっと苦言を呈するならアップが大アップ過ぎること。この監督、初監督作品だそうだがテレビ出身の人なんだろうか。スクリーンで見るには顔が近すぎて少々圧迫感がある。ここまで寄らなくてもいいんでないの?
まぁ、かなりマニアックな映画だからDVDのことも考えてるのかもしれない。テレビ画面だとソフトフォーカスの効果は減るけど細部がよく見えないというストレスも減りそうだ。
それと、これはエンドロールにも一枚看板で出てるから書いてもいいと思うんだけど、マッドサイエンティストを演じてる(?)のは10年以上前に亡くなった名優、ローレンス・オリビエなのだ。(細かくは書かないけど生身で登場するわけじゃない)
これって往年のファンには売りになるんじゃないのかなぁ。宣伝、下手だぞ。
続いて「ゴジラ ファイナル・ウォーズ」を見る。
いきなり「TOHO SCOPE」のタイトル。そして新たにミニチュアを作ったと思しき”旧”海底軍艦「轟天号」!
おお!かっこいい! これだけでも金を出して見る価値はあった。ただしマンダがCGなのと艦長が中尾彬ってのはちょっとなぁ。
ネットでは賛否分かれている「ゴジラ」だけどどんなモンか、多少の不安を持って見た。話が進んでいくうちにムフフな所がいろいろ出てきて楽しい。何の説明も無く唐突に小美人が出てきたり佐原健二の役名が神宮寺”博士”だったり、水野久美が波川”指令”だったり。ちなみに私の携帯の待ち受け画面はこれ。わはは。
そんなくすぐりは別にしても結構面白い。
こちらもお話はどうでもいい。シナリオに関してはいまいち練れてないけどテンポ良く進んでいくんで気にならない。X星人役のいっこく堂サンの怪演もスバラシイ(←違うって、別人だよ!)。ミニラのぬいぐるみはともかく、富士の裾野に住むマタギ役の泉谷しげるなんか最高!衣装なんか、これだけでアカデミー賞をやってもいい。
で、クライマックスが近づくにつれて...「あれれ、ゴジラはどうしちゃったの?」
この監督、よほど格闘技がお好きなようで(新)轟天号の艦長はじめ、何人もの格闘家が出演している(らしい。私はそっちの方は知らないんだけど)。んだもんで「マトリクス」ばりの格闘シーンがやたら多い。序盤は許せるとしてもクライマックスで人間の格闘なんて見たくはない。怪獣を見に来てるんだからさ。格闘技好きな人なら面白いのかと思ったけど一緒に見た格闘技好きの友人(彼は10回戦までやった元ボクサーでもあるから筋金入りである。ただし私より怪獣好きでもあるのだが)も呆れていたのだから何をかいわんや。
思い出したようにキングギドラとの決戦を征してエンディングへ。
うーん、だけどこの終わり方、昭和のガメラじゃないの?お子様もちょっと引いちゃいそう。
「スカイキャプテン」の鮮やかなラストを見た後ではちと辛い。
なるほど、賛否分かれる理由がわかった。前半は面白いのだけれど後半は違うところに行っちゃう。格闘シーンを中心にあと20分カットしたらすっきりしそうなんだけどな。惜しい。
うう、それにしても2本立てはキツイ。昔は一日で8本見たなんてこともあったのだけど。
写真は門外漢で、写真家と呼ばれる人の名前などほとんど知らない私だが、雨の中、わざわざ出張って行ったのは牛腸さんとは生前少しだけ面識が有ったのと、その頃拝見した作品がとても素晴らしく、深く心に残る写真だったから。
実は昨年、国立近代美術館でも作品展があったのだが気が付くのが遅くて行きそびれてしまったので今回は万難を排しても行きたかったのだ。それと佐藤真監督の記録映画「SELF AND OTHERS」のフィルム上映が今日までだったし。(ビデオでの上映は期間中ずっとやってるんだけど、やっぱりフィルムで見たかったので。)
面識があったと書いたけれど実際は氏のことは何も知らないに等しい。身体的ハンディがあることは一目でわかるけど、どんな病気だったのかも知らなかったし(まさかご本人に聞く訳にいかない。)考えてみれば「茂雄」というお名前も知らなかったのだ。風の噂で亡くなったと聞いたときも「やっぱり具合が悪かったんだね。」と話しあったほどで、今回、その辺の経緯や経歴もよく分かった。(「三鷹市美術ギャラリー」参照。あっ、来月は山形でもやるのか。こちらのページのほうが解りやすい。)
その経歴や写真界での評価を知ると、楠勝平とよく似ていることに感銘をうけた。
3歳で胸椎カリエスという病気になり一年間も石膏のベッドに縛り付けられた生活ってのはどんなものだったのだろう。その後遺症で身長は子供と変わらない位しかなかった。そして36歳で亡くなっている。私が知っていた牛腸さんは30歳前後だったのだろう。2冊目の写真集「SELF AND OTHERS」の為の作品を取りためていた頃だろうか。当時は氏の作品に対する評価も知らなかったし、ただの写真家を目指す気さくな、そしてユニークなオッサン(失礼。でも私より10歳も年上なので)としか認識していなかった。
写真集を出版されたことも知らなかったし、ましてやその後の評価も知る由も無かった。
作品を見せて頂いたときも「とても金になる写真じゃない」と思った(つまりこれで生活するのは難しいということ)。ただしその静謐で時間を凝縮したような表現は深く心に染み入る暖かさを持っていて、一見ただの記念写真のようでいて絶対ほかの人に撮れる写真ではなかった。
今回は、残された3冊の写真集に収められた写真のほか、学生時代の作品や写真以外の作品も展示する、氏の生涯を全貌した企画。ただ、ここまでやるならピンホールカメラで撮影された作品が展示されていなかったのは少々残念。残されていないのだろうか。
今回の作品展で、当時拝見した写真の何枚かに再会した。特に写真の中によく見知った顔、見知った場所を発見したときには何とも言えない感慨がある。(←そういう観かたをされるのは不本意だろうが)
会場は二箇所に別れていて、第一会場は「三鷹市美術ギャラリー」。三鷹駅の真正面、「コラル」というビルの5階。日曜というのもあるのだろうが雨が降っているのに結構入場者は多かった。特に若い人の姿が多かったのが心強い。彼等は私のように懐かしがって見たりしないからきっと牛腸茂雄の本質に触れられるだろう。
ここでは学生時代の作品や最初の写真集「日々」、二番目の作品集「SELF AND OTHERS」に収録された作品を展示。すべてモノクロ。
氏の写真の多くは人物を真正面から捉えている。人物はまっすぐカメラを見据えている。そしてローアングルと大きく切り取られた頭上の空間。
これらは素人が撮る記念写真の要素でもあるが、もちろん素人の写真とは絶対的に異なる。
上に表示した「セルフポートレート」を例に解説を試みてみたい。ただし、当然ながら私も素人なのであまり信用しないように。
まず気が付くのはローアングルじゃないって所。これだけは牛腸氏の狙いだから他の作品と違う。つまり健常者の目線から見た自分を撮りたかったのだろう。
そして、もし写真なんか撮ったことが無いって人が撮ったらほぼ同じ構図になるだろう。だから誰にでも撮れそうな写真に見えるのだが、素人だと、より人物の「顔」を中心にと考えてもう少し左にカメラを振るかも知れない。これは最悪のケース。左の壁だけが増える。露出は当然自動だから窓の外の明るさに反応して部屋の中は真っ暗になるはず。
これが少し写真とか構図とか聞きかじったらどうするか。例えば私なら (^^;)
常識では上の壁は必要ないのでカットして全身を入れる。
後ろの額が唐突な印象を与えるので(それも狙いだと思う。実はこのインクプロットも牛腸さんの作品だったのは今回初めて知った)立ち位置を調整する。
更に目線を合わせる為にカメラ位置を下げるかもしれない。
これだけ明るさの違いが有ると窓の外の景色は飛んでしまうので、どうせなら部屋の明るさに合わせて半絞りあける。
その辺が普通によくできたポートレートだろう。これが素人の(私の?)限界。
これを超えたところから作家性が始まる。
直線的に切り取られた室内。そこにポツンと小さく写ったご本人。微妙な暗さと明るさ。そして牛腸さんがこの場所を選んだのは幾何学的なビルの室内と外の古い街の景色が同時に収まるからだろう。窓の外は蔽い焼きしているのか尋ねなかったのが今更悔やまれる。
この写真には普段の努めて明るく振舞っていた(ように私には見えた、かと言って暗い印象ではないのだが)、あるいは人付き合いが苦手で多少無理をしていたのかもしれない牛腸さんの姿からしたら少々気取った雰囲気が伺えるのは事実である。でも、誰でも自分自身の写真を撮る時、多少気取ってしまうのは当然である。その気取りの外側に自分の本質を表現できるか否かである。氏、御自身は自分を理解していた。そして他人が氏をどのように見ているかも(多少のコンプレックスを含めて)よく理解していたからこんな素晴らしい写真が撮れたのだと思う。
写真は時間を切り取ると言われるが、被写体である人物とカメラが正面から対峙することで剣豪同士の対決のような緊張感が時間を止める。
ローアングルといっても小津安二郎や加藤泰のそれとは意味合いがまったく異なる。映画の場合は観客席からスクリーンを見上げる為に目線の低さが生きてくるのだが、氏の場合、常に他者を見上げていたことから必然的に生まれた構図だろう。低い目線は子供を捉えるには特に効果が大きい。
頭の上を大きく空けるのは素人に在りがちな構図だが、これは顔を画面の中心に据えてしまうための稚拙な写真。しかし氏の写真はあえて頭上を大きく開けることによって世界の広がりと長い時間を写真の上に定着させている。
第二会場は15分ほど歩いた所にある「三鷹市芸術文化センター」。
こちらでは映画「SELF AND OTHERS」の上映と三冊目の写真集「見慣れた街の中で」に収録されたカラー作品、死の直前に写真雑誌に発表された子供の写真数点の他、写真以外の作品も展示されている。
これは私の全然知らなかった牛腸さん。華やかな街を写したカラー写真はブレボケ、ノーファインダーといった手法も取り入れ、街の喧騒が聞こえてきそうなアクティブな写真群。しかしその中にポツリと混ざる静止した時間を写した作品が一層の効果をあげる。これらのカラー写真や水にカラーインクを垂らして定着した作品などを見ると氏が素晴らしい色彩感覚をお持ちだったことがうかがえる。
一転子供を撮影した作品は再びモノクロ。これは次の作品集に収められる予定であったそうな。残念である。
全ての作品に共通するのは大きなハンディを持っていたにもかかわらず人間を見る目の優しさ。決して斜に構えることなく対象と向き合い包み込むような暖かさを持っている。
そして16ミリで撮影された佐藤真監督による、第二作品集と同じタイトルの記録映画。本項のタイトルはこの映画の冒頭のキャプションである。その中に残念ながら氏の動く映像はない。遺品やらスタッフとして参加した映画、そして氏の写真と手紙やノートの朗読でその生涯を綴っていく1時間弱の作品。最後に懐かしい、少しかん高い、けれど記憶より少しだけ覇気の無い氏の肉声が流れる部分では不覚にも目頭が熱くなってしまった。
自分自身と自分以外の人間。他者を見つめ自分を見つめ、その隙間を埋めつつ埋めきれない隙間を確認する作業。それが牛腸氏の生涯のテーマだったのかもしれない。始めはちょっと、とっ付きにくいかと思えるけれど、寒いオヤジギャグを言って自分で笑っているような方だった。そして、ふっと遠くを見るような、寂しいような目をする瞬間がある方だった。孤独なのは氏のほうであったはずなのにこちらが置いて行かれたような思いにさせられる瞬間だった。
「アー、アー。あ・い・う・え・お。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド。この声が人にはどのように聞こえるのだろう?」
改めて牛腸茂雄氏のご冥福を祈りたい。
というわけで久々に拝見しました、「ラメのスウちゃん」(「いつも春のよう」収録)
私が読んだあすな作品の中でも特に印象深く記憶している作品。
土方の手配士、源ちゃんはドブスで男から相手にされないホステスのスウちゃんに一目惚れ。同棲を始めるが交通事故で失明してしまう。スウちゃんは自暴自棄になる源ちゃんに献身的に尽くすが源ちゃんは階段から落ちて死んでしまう。
スウちゃんが繰り返し歌う「露営の歌」(♪勝ってくるぞと勇ましく...ってやつ。昔の軍歌です。)が実に効果的だ。あすな作品には歌をモチーフにしたり演出として使った作品も多いが、この作品にはポップスでも演歌でもいけない。景気がいい歌詞にどこかもの哀しいメロディーのこの歌じゃなけりゃいけない。暫らくのあいだこの歌が頭から離れそうに無い。
たった24ページの漫画だけれど、ブスとブ男の恋物語なんて誰も読みたくないかもしれない。スウちゃんのたった一度の恋として過去形で語られる物語は、かなり自虐的である。
かわいがってくれた男は父親だけ。愛する源ちゃんは小便まみれで死んでゆくというかっこ悪さ。
自虐的であるがゆえに小さな飲み屋を切り盛りするその後のスウちゃんの後姿はたまらなくいとおしい。スウちゃんはブスだけどとても”可愛い女”なのだ。
で、これって1975年の作品、って事は「青い空...」より前の作品だったんですね。イメージ的には「哀しい人々」が後かと思っていたが、この頃ってあすなひろしが一番ノッてた時期なのだなぁ。
それから30年。スウちゃんは60か70になってる勘定だ。
もし作者が存命なら今のスウちゃんの話を描いて欲しかったけど、かなわぬ願いになってしまった。
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